妻は「ブダペストに行きたい」と言った

平成生まれ・子育て中の主夫のブログ

昔はつまらなかった『坊ちゃん』が面白かった- 「大人」になるということ

 

こんにちは、hieshoumoyashitarouです。

 

皆さんは夏目漱石って読んだことがありますか?

 

僕は最近、夏目漱石の『それから』を読んでみたところ、非常に面白かったので、

 

他の作品も読んでみたいなあと思っていました。

 

それでもなんとなく読まないでいたんですけど、

週末に妻と「裏地あったかぱんつ」を買うために「しまむら」に行ったら、

同じ階に本屋さんがあったので寄ってみたんですね。

 

最近は、Amazonで本を買うのが習慣になっていましたし、

その本屋さんも、ぱっと見た感じ、「ショッピングビルに入っている普通の本屋」という感じだったので、僕は「なにも買うものはないだろうなぁ」と思いながら入ってみたんですね。

 

そしたら、お店を入ってすぐの文庫本の小説が平積みになっているところに、

夏目漱石が、色とりどりな服を着て物憂げな顔をしている。

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(先生、気持ち悪いですよ!)

(画像は、「産経ニュース」より引用。

http://www.sankei.com/photo/daily/news/161208/dly1612080016-n1.html)

 

そのときは、「昔の有名な小説家を復刻で推してるんだなぁー」と思ったんですが、

どうやら、没後100周年ということで、漱石フェアをやっていたみたいです。

 

それで、「わぁー、読みたかった『三四郎』だー」とか言って手にとってたら、思わず買ってしまったんですね。

Amazonの中古本と比べても、そんなに値段に差はありませんでしたし、

なにより、手に取った勢いで。

 

初期代表作の『坊ちゃん』と、

『それから』とあわせて三部作と言われている、『三四郎』と『門』を買いました。

 

いやでもね、昔『坊ちゃん』を読んでみようとしたことがあったんですよ。

家にありました。『坊ちゃん』。

なんか知らないけど、昔の偉い作家の小説って、文庫本が自分の家の本棚にあったりしませんか?

 

定価が安いですし、「教科書に出てくるような昔の偉い人の小説でも読んでみるかー」と思って、自分で買ってみたり、親が買っておいてくれたり。

でも、結局最後まで読みきらないでそのまま本棚に忘れ去られている。

『坊ちゃん』も僕の実家にあって読みましたが、そのときは、たしか、

「なんで怒ってばかりいるんだ」とか思ったきり、最後まで読まないでいました。

 

そして、今回、『坊ちゃん』を読んでみたら、面白かった。

 

 

読みながら、「どうして昔はつまらなかったのが、今読むと面白いんだろう」と考えましたが、

それは、たぶん、僕が「坊ちゃん」のようで「まっすぐな正直者」でなくなったからじゃないかと思いました。

良くも悪くも、「大人」になったんですね。

 

世の中の大人が必ずしも、不誠実だとか、正直でない、ということではありません。

そんなことはありえませんよね。

だって、誰だって、誠実で正直なときもあれば、そうでないときもありますから。

 

でも、一般的に「大人」って言ったら、それは、「世間慣れしている」とか「すれている」とかって意味を含みますよね。

そして、大人であることを言い訳にはできませんが、

生きていくなかで、適当にごまかしたりうそをついたりしたりして、その場をしのぐことがある。

 

坊ちゃんも、言っていることはむちゃくちゃです。

「あいつは頭がおかしい」って言ったり、同じ人のことを、「やっぱり良いやつだ」なんていったり。

 

それでも、「坊ちゃん」は、とにかく、「正直」です。

「正直でいよう」とする以前に、当然のように「正直」なんです。

 

だから、職員会議の場で、素直に過ちを認めて「それは私が悪かった」と当然のように言います。

その「坊ちゃん」のあまりに「まっずぐで正直」な態度に接して、周りの教職員は、おかしくて、思わず笑ってしまいますが、その周りの反応に対しても、「坊ちゃん」は、「なんで笑ってやがるんだ。悪いことを悪かった、って言ってるだけじゃないか」と怒ります。

 

そして、その怒りは、いちいち周囲の人に対して表明されるわけではありません。

「坊ちゃん」と僕たち読者たちとの間で、それもこっそりとではなく、あくまでも、「坊ちゃん」らしく、「まっすぐで正直」に語られるのです。

 

夏目漱石は、『坊ちゃん』を振り返って、「私は、赤シャツだ」と言っていたそうです。

 

赤シャツは、策を弄しながら平気な様子で、「坊ちゃん」たちをおとしいれ、最後には、「坊ちゃん」たちに「鉄拳制裁」をくらって成敗されます。

 

それでも、「赤シャツ」たちは、「坊ちゃん」たちに暴行されたことを警察には言わないままでいます。

そのほうが、自分たちのスキャンダルが明るみにならずに、「得」だと考えるんですね。

そして、「坊ちゃん」たちがいなくなった学校に戻って、それまでのように、小汚いことを繰り返して、世間を好き勝手に牛耳っていくようです。

 

読者である僕たちにとって救いなのは、東京に帰った「坊ちゃん」を、「坊ちゃん」が何をしても「正直なお人だ」と言ってほめる「清」という使用人のおばあさんが迎えてくれることです。

 

そして、「清」の他にも、「坊ちゃん」の「まっすぐで正直」な気性を買ってくれた人がいたのか、

「坊ちゃん」は、その後、仕事について暮らしていくことができたようであることが語られます。

 

夏目漱石は、どうして、「坊ちゃん」を書いたのでしょうか。

 

それは、亡くなってから100年が経過した現代を生きる僕らにも、

「なぜ『坊ちゃん』が面白く感じられるのか」という形で通じる問いなのではないでしょうか。